「シャーデンフロイデ」という言葉をご存知でしょうか。
ドイツ語で「恥ずべき喜び」という意味の「他人の不幸を喜ぶ心理」のことです。
『「妬み」はとりわけ競争的な状況で他者の不幸から深い満足感をもたらす。
「シャーデンフロイデ」を感じる能力は、利己的かつ暗い人間性を際立たせる。』
リチャード・H・スミスという「シャーデンフロイデ」研究の第一人者の言葉です。
『シャーデンフロイデ: 人の不幸を喜ぶ私たちの闇』(2018年勁草書房)
日本では脳科学者中野信子さんの
『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(2018年幻冬舎新書)という本が有名です。
実は20年ほど前にこの言葉の存在を知ったとき、
「ああ、この嫌な気持に名前があるんだ」と妙にほっとしたことを覚えています。
当時は会社員で、周りの同世代に対しライバル心と同時に嫉妬心を抱いていたからです。
なんであいつが自分より先に偉くなるんだ、とか、
あいつが失敗すればこっちのもんだ、とか。
自分のメンタルの半分はこの「シャーデンフロイデ」で
占められているのではないかという気がしたくらいです。
ほんと嫌な人間だったなあといまになって思います。

そしてそんな自分の感情が恥ずかしくて、
「自分は自分、他人は他人」と自分に言い聞かせるのですが、
どうやっても心の底にヘドロのように沈殿しているこの気持ちは消えませんでした。
誰もが持っている感情なのだと知っても、
その快感を期待している自分が情けなかったのも事実です。
ではこの「シャーデンフロイデ」という邪悪な感情と
どう折り合いをつけて自分を納得させて日々を過ごせばいいのか。
「他人の不幸を願うだけならいいんじゃないの、他人を傷つけなければ」
というのが大方の意見かと思いますがいかがでしょう。
それから約20年経って、もう年金暮らしに入った4人の爺さんたちが居酒屋に集まった時に
この「シャーデンフロイデ」の話題になりました。
いやー、出るわ出るわ、「シャーデンフロイデ自慢」が。

「あいつが株で大損したって聞いたときは思わずガッツポーズをした」
「学生時代ラグビーをやっていて、同じポジションのライバルのケガを神社で祈願した」
「自分を評価しない女性の上司が突然左遷させられたときに仲間と祝杯を挙げた」
私も大昔ですが会社のサッカー大会で、ある支社との決勝戦の前夜、
相手のエースを誘い出し居酒屋でしたたかに飲ませて
翌日二日酔いで使い物にならなくしたという「シャーデンフロイデ体験」の話をしました。
なんだ、結局みんな「邪悪な人間」だったんじゃないかと、大笑いしました。
ところが、「でも最近はあまりこの感情がわいてこないのはなぜだろう」という
その中の一人の爺さんの話に全員が「確かに」と共感してしまったのです。
そうなんです。年を取ってまわりにライバルがいなくなったからか、
あるいは「老年的超越」というあまり人間関係を気にしない心理年齢になったか、
4人とも「シャーデンフロイデ」からは卒業したんじゃないかと妙に納得し合ったのです。

私が最近その「シャーデンフロイデからの卒業」をなんとなく感じたのは
好きな女子ゴルフのテレビ中継を見ていたときのことです。
いつもは応援している推しの選手と優勝争いをしている選手がミスショットをしたら、
思わず拍手をしてしまっていたのが、
その日は1打差で追い掛けてくるライバル選手のバーディを喜び、
2人の「プレーオフ」を期待している自分に気づきました。
ああ、そういうことか。
この時、自分の心の中の「シャーデンフロイデ細胞」が小さくなったと感じました。
もう出世争いもなく、スポーツのライバルもなく、
ただ人生や観戦を楽しむだけなら「シャーデンフロイデ」は出る幕はないのです。
心の奥底に沈んだままにしておけばいいのです。
そして爺さんたちの「シャーデンフロイデ自慢」にも
スポーツ観戦中の「シャーデンフロイデ」はよく登場しました。
しかし応援している選手やチームの失敗を願ったり、喜んだりする気持ちは
そんなに忌まわしく感じないのは不思議です。
そこでプレーしている選手だって言葉や態度に出さないだけで
恐らくは隠し持っている感情だと思うのですが。

しかしプロはその感情を上手にコントロールすることができるんですね。
「相手ではなく自分との戦い」と割り切るメンタルの強さがあります。
女子プロゴルファーで途中の「スコアボードは見ない」というプレーヤーは結構います。
これも「シャーデンフロイデ」という「邪念」から自分を守るメンタルマネジメントなのでしょう。
そう「邪念」だけれども心の中から消すことができないのが「シャーデンフロイデ」です。
しかしこの「邪念」も年齢とともに薄れていきます。
ところがそれに気づいた4人とも、ちょっと寂しい気になったのはなぜでしょうか。
若い頃はライバルのミスショットを願った。
しかし今はプレーオフを願う。
それが「成長」なのか、「老年的超越」なのかはよく分かりません。
ただ、人生後半の心は少しだけ穏やかになったような気がしているのも事実です。
